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静岡初の学生専用シェアハウスとして、2015年にスタートした『コクーンベース』。現在は社会人の入居者も加わり、学生と社会人が交わるプラットフォームとしても機能しています。運営しているのは鈴木駿矢さん。東京からのUターン、そして住宅会社勤務とのパラレルワークということで、その働き方についてお話を聞いてみました。

将来像をイメージして移住

――コクーンベースの運営とサラリーマンとしての仕事。二足のわらじということですが、ずいぶんと忙しいのでは?

そうですね、サラリーマンとしては新築戸建て住宅の営業ですから、土日は基本出勤で水曜日がお休み。他に一日どこかで休む、という感じです。もともと「副業はどんどんやっていい」という会社なので、同僚や上司でも珍しくないですけどね。所属部署の専門性を活かして個人で不動産関係やデザイン関係の仕事をしている人もいます。給与に占める歩合給の割合が高いので、「給料が足りなければ自分で稼いでおいでよ」という社風ですね。

――なるほど。個人に裁量権のある素敵な会社ですね。もともとそちらの会社で働かれていたのでしょうか?

いえ、出身は静岡県裾野市で大学も静岡県立大学卒なんですが、卒業前から東京でインターンとして働いて、その会社にそのまま就職。インターン期間も含めて5年は県外で働いてから静岡に戻ってきました。

――それではUターン移住ですね。東京ではどんなお仕事を?

音楽フェスなどイベントの企画制作をやっている会社でした。働き方は夜遅いし朝は早い。イベントが集中する時期は40連勤したこともありましたね。平日はデスクワーク、土日はイベントの現場につきっきり。大きなイベントになると地方の現場に一週間詰めて、東京に戻ってきたら報告書の作成、次の週はまた別の現場に飛ぶ。ここだけ聞いたらすごくハードに感じられるかもですが、本当に“好きだからできる”仕事でしたね。

――ハードそうですが、やりがいもありそうですね。

そうなんです。この仕事は大好きでしたが、結婚して子どもができるとしたらこの生活は難しいなと思いました。僕は30歳までに結婚して子どもは二人ほしいと思っていたんですよ。決め手になったのは、日曜日に結婚式を挙げる予定で仕事の調整をしていると前日の土曜日にイベントの現場が入りそうになって…。「やっぱりいまのスタイルで続けるのは厳しい」と痛感しました。
あとは、東京の学校や幼稚園、保育園で子育てするのは無理だなと。園や学校の敷地はみんなフェンスで囲われていて、人工芝の上で遊んでいる。それと費用面ですよね。例えば、今の会社で扱っている一戸建てを東京で建てたら、予算は場所によっては6千万~1億を超えるでしょう。でも、静岡なら3~4千万。いったいこの差は何なんだろうと…。
前職を辞めようというときに、東京で声をかけてもらった会社もありました。給料も倍近く出すと。妻にも相談したんですけど、やっぱり年収はいくら上がっても東京でのこれからの生活はイメージできないという結論になりましたね。
でも、東京でやっていた仕事のヒリヒリするような独特なスリルは懐かしく思うことはありますけどね。

――どうしても東京じゃないとできない、という仕事はありますね。

ただ、やり方はあると思っています。音楽フェスを例にとると、フジロックは新潟県の苗場でやってますが、「新潟ローカルのイベント」という雰囲気はないじゃないですか。「すごく面白いことをやってる!」ということが、たまたま静岡で行われているっていう作り方にできればいいですね。
(さらに…)

やさしく、あたらしく、あなたらしくなれる社会を目指して、未来の地域社会がどうあるべきかを考え、行動するNPO法人ESUNE。未来志向の対話の場「フューチャーセンター」の運営支援をはじめ、静岡を舞台にさまざまな活動を行っています。代表の天野浩史さんは、根っからの静岡ラバーかと思いきや、実は静岡とのファーストコンタクトは意外なものでした。

来たくなかった静岡

――NPO法人の活動内容を拝見すると地域に密着している感じがしますが、静岡とのゆかりについて教えていただけますでしょうか?

はい。出身は愛知県岡崎市でして、静岡には2010年の静岡大学入学をしてからの関係になります。なので来年(2020年)で10年目になります。

――そうなんですね。てっきりご出身も静岡かと思っていました。静岡には自分で望んで来たということでしょうか?

それが、全然なんです。むしろ地元の方が好きでした(苦笑)。僕はもともと高校の物理の先生になりたくて、物理学科のある大学を受験していました。ですが名古屋大学の理学部は残念ながらダメで、後期試験で受けた静岡大学に入学した、というのが本当のところです。浪人も真剣に考えたんですが、地元が好きなので実家から通えるところを……と思って静岡大学に決めました。でも静岡大学の理学部は、岡崎に近い浜松にあると勘違いして、あとになって静岡市の方にあると知り、受験のときも親に車で送ってもらったりして大変でした。初めて来たときには、友だちもいないしすぐにでも帰りたかったくらいです。

――それが静岡との最初の関わりだったんですね。第一印象はいかがだったでしょうか。

最初はネガティブな気持ちでいっぱいでしたね。だいたい、静岡大学の場所も静岡市の中心からは遠いし(笑)。でもそんな感じで始まった大学生活ですが、先輩から誘われた棚田の保全サークルに入ったことで、考えが大きく変わりました。最初はサークルの人たちや地域の人たちとのふれあい自体が面白かったんですが、地域の人たちと関わっていくうちにまちづくりに興味を持つようになりました。
ちょうど大学2年の終わりのころですけど、「これからの人生、どうしようか」って真剣に考えたんですね。サークル、物理の研究、教員免許のための単位の取得と忙しい日々だったんですが、そこで「教員じゃなくてもいいんじゃないか?」ってはじめて思い始めたんです。

――教員免許のための単位って大変ですし、理系だと実験や研究も忙しいですしね。

そこで、「まちづくり」を仕事にできないかって考えたんです。それからいろんな場所に出かけて、いろんな人に会ったり話を聞いたりしました。Facebookもはじめて人脈も増えました。そこからだんだん面白くなってきて、3年生から4年生にかけては、もうすっかり教員よりまちづくりのほうに気持ちが行ってましたね。

――なるほど。なので現在は教員ではなくNPO法人の代表なのですね。

そうですね。ですがいきなりNPO法人の代表というわけではなく、地域課題に人手不足というのがあるのも知っていたので求人情報を扱っているメディアに就職して沼津に引っ越しました。そこから求人広告の営業を1年ちょっとやって、静岡市の企画部門に異動。ここではU・Iターンや採用に関する新規事業の立ち上げにかかわりました。求人広告って人と人をつなぐ仕事で、これは今にも活きていますね。

まちづくりと教育

――会社員から現在のNPO法人の代表になるまではどういった経緯だったのでしょうか?

平日は会社の仕事をやって、土日に棚田の保全活動を続けていました。これがけっこう大変で、ほかにも会社の仕事で週2回三河エリアに行っていた頃は、まちづくりのファシリテーターも同時にやっていて本当に忙しかったです。その時、将来のことを自分自身に落とし込んで、本当にやりたいことをやるために入社3年目の冬に退職しました。
そして、2017年にNPO法人を立ち上げて、地域での活動をスタートしました。ESUNEの設立は2013年ですが、法人化は2017年です。

――「まちづくり」というと華やかなイメージがありますが、実際にはいかがでしょうか?

実際には泥臭い地道な仕事が多いです。地域活動や社会課題解決を通じてお金を稼ぐことがいいのかどうか、という意見もあります。なので僕自身「東海若手起業塾」という支援プログラムに通ってビジネスとしてきちんとやっていくことを学び、2018年からそれを実行に移しています。例えば、企業の新人研修を受け入れるための教育プログラムを提供したり、日本平動物園にどうやって新しい顧客を呼び込むかという課題を、まちのプロジェクト化して市民から仲間を募ったりしました。
日本平動物園の事例では、「普段動物園に来ない層を高齢者と仮定して、どうしたら呼ぶことができるだろうか」と課題を設定して、仕組みを考える人を募集したら介護福祉系の企業で働いている方や学生から応募があって、そこから「ZOOリハビリ」という取り組みが誕生して仕事になったということもあります。
最近は、「無店舗型のワイン屋さんのアイディアを考えてくれる人」と募集して、社会人3人と静岡大学の学生3人が応募してきてくれて、社会人のうち一人が花屋さんだったので花屋さんとワインバーをコラボした「どこでもワインバー」という企画を実行したりしています。
会社勤めの人でも仕事帰りや休日に参加できたり、学生も気兼ねなく加わったり、とにかく、多彩な人が参加できる枠組みを作ってビジネスとしてのサイクルを回していきたいですね。


▲「ZOOリハビリ」の様子

――困りごとと人とをつなぐというのは、まさに求人メディアでの経験が生きていますね。まさに充実、という感じですが、最初は「来たくなかった」という、10年前の静岡の印象は変わりましたか?

今では、静岡以外で生きていくイメージを持てないくらい、静岡が好きになりました。地元の岡崎に帰ると、ちょっと違和感を覚えるくらい(笑)。静岡は、僕にとって人の顔が見える街なんです。大学で棚田保全やまちづくりを一緒にやった先輩や、同期のおかげで今がある、とはっきり感じます。静岡には僕が一緒にいたいと思う人、僕を必要としてくれる人がいる街。街があって僕がいる、そう思える街になりました。
ゆるいコミュニティがたくさんあるので、どんどん参加していくことで人と地域とつながっていける。一般的なコミュニティはどうしても囲い込む方向に行くことが多いですが、どんどん参加できる、これは静岡の美点だと思いますね。

――今後の目標を教えてください。

東京に大正大学という大学があるんですが、ここが4年前に「地域創生学部」を作りました。首都圏の大学に地域創生をうたった学部ができるのは、おそらく初めてじゃないでしょうか。昨年から大正大学の非常勤講師として関わることにもなったので、教える立場として地域に関わっています。さらに来年からは静岡大学の大学院で「地域と教育」をテーマに研究することにしています。地域を消費するのではなくて、教育との関わりでもう一度地域が紡がれていく。そういう取り組みをしたいですね。

最初は何の思い入れもなかった静岡が好きになり、いまでは静岡を舞台に県内外で活躍される天野さん。大学で教える立場もなされているということで、巡り巡って教員という立場から教育に関わるというのもどこか運命の巡り合わせのようです。思いを持って活動していると自ずと繋がっていくものなのかもしれません。
(文=深水央、写真=窪田司)

だれかに紹介したいお店…それは提供される商品の質はもちろん、中で関わっている“人”に魅力があるのではないか。そんな想いからこのシリーズではお店の中の人にフォーカスしつつ、お店を紹介していきます。

急展開の静岡移住

2017年11月、新静岡駅近くの閑静な住宅街にオープンした『CHA10(チャトウ)』。体に優しい新感覚のお茶とスイーツを楽しめるカフェとして、国内外のお客様でにぎわっています。キラキラと輝く明るい笑顔で接客する中野目則子さんは、東京から移住して、この店をひとりで経営・運営されています。大きな夢に向かって一歩ずつ前進する中野目さんのストーリーと合わせてお店を紹介していきます。

――スタイリッシュなカフェですね。

ありがとうございます。こちらはもともと静岡のカクニ茶藤という日本茶の製造や輸出を行う会社が、2017年11月にオープンした抹茶カフェです。カクニ茶藤の代表でもありグローバルに活躍される実業家・加藤さんの「ぜひ鷹匠で若い世代にお抹茶を伝えるカフェをオープンしたい」という思いから始まりました。

――では、中野目さんはその会社で働かれていたのでしょうか?

それが全く違うんですよ。このカフェを引き継ぐため、今年(2019年)6月に東京から静岡に移住してきたんです。

――そうだったんですね! それまでは別のお仕事をされていたんですね?

話せば長くなりますが(笑)、私は東京出身で、NECで会社員をしていました。その後、飲食業に興味を持ち、27歳でドトールコーヒーに転職して店長に。長く飲食業をしていると体が疲れるので、体のひずみ矯正や小顔セラピーなど美容系の資格を取るうち、食自体にも関心が向いてマクロビォティックを知りました。これなら体が続く限り飲食業ができると思い、東京・日比谷にあるカフェ『CHAYAマクロビカフェ』に電話して、スタッフを募集してないですかと聞き、採用してもらいました。これが14年前のことです。そこから横浜店、二子玉川店、日比谷店の店長を経験してきました。

――20代から長くドトールで働かれて、それからマクロビカフェで14年…そこから静岡という新天地でお店をはじめられたきっかけは何だったのでしょう?

『CHAYAマクロビカフェ』で日本のスーパーフードを扱い出して、そしてお抹茶に出会いました。マクロビもお抹茶も日本古来のものなのに、海外に出てから認められて、逆輸入してヒットしたんですよね。マクロビは丸ごととるのがコンセプトで、オーガニックにこだわったりと共通点が多いんです。
2年前の夏、ちょうど東京のCHAYAがお店のリニューアルで3か月休むとき、両社をつなぐ方から「カクニ茶藤さんが静岡でカフェをオープンするので、社長を紹介したい」と言われて、加藤さんに初めてお会いしました。「ここでお茶屋さんをやるんだけど、どうだろう?」と聞かれて、「ここでお茶だけで戦うのはかなり難しいのでは」と感想をお伝えしたことを覚えています。

――なるほど、カフェのプロとして意見を求められたのですね。

それから11月にオープンされて、飲食経験のない社員さんがされていたので、私はプライベートで遊びに行って、少しだけアドバイスみたいなことをしていました。社員さんは私がアドバイスしたことをちゃんとやってくれて、すごいなあと思っていました。
それが今年の初めに、カクニ茶藤さんの本業が忙しくてカフェをできないので、手放して誰かに譲りたいと話をされまして。実はオープンのときにも「やりませんか?」と声をかけられたけれど、私は東京人で東京に仕事があって、静岡は誰も知らないから難しいとお断りした経緯があったんです。でも再度「好きなようにやっていいから、継いでくれたらうれしい」と真剣にお誘いを受け、今年2月に「わかりました」とお引き受けすることにしました。そして、東京と静岡を行ったり来たりして5月に前の会社を退職し、6月に静岡へ移住してきて、6月26日にこちらをリニューアルオープンしました。

――まさかの急展開ですね。リニューアルで何か変えられたのですか?

店名と内装はそのまま、さらに私が今までやってきたマクロビを活かして、「体に優しいお茶とスイーツで、訪れるたびにアンチエイジングされてしまうカフェ」というコンセプトを掲げました。新しい感覚で、体に優しいお茶とスイーツを提案しています。

覚悟を決めて夢の続きへ

――お店をリニューアルオープンされて半年、いかがですか?

今はひとりでやっていて、お店は9時から17時まで開けています。東京では夜まで仕事をしていたけど、今は昼に働き、人としていいサイクルだなと。もともと11時から19時までだったのを2時間早めて、夜は他の方に貸してバーとして活用されているんですよ。
思っていたよりお客様がたくさん来てくださって、週末はいっぱいになるくらい。気軽な英会話の会なんかもやっています。でも、思っていた以上に大変かな(笑)。ドリンクとスイーツだけで店を経営していくこともですし、ひとりでやっていくことも難しくて、そろそろ人を入れたいなと。

――人気店に成長して、お一人で回すのは大変そうですね。どんなお客様が多いですか?

若い方をはじめ、食にこだわりのあるご家族、外国の方が多いですね。インスタを見て来てくれたアジアや欧米の方も。新しい感覚のお茶を求めて来てくださっているみたい。そんな方には、近くにある『chagama(チャガマ)』さんをご紹介するんですよ、素敵なお茶屋さんだから。静岡のお茶屋さんって、ライバルより共存という感じで、みんなで静岡のお茶をアピールしていきたいねというところがよくって、でも奥ゆかしくてアピールし切れていないのがもったいないとも感じます。

――東京から移住されて暮らしの面ではいかがでしょうか?

実はこの歳でシェアハウスに住んでいます。若い人が多いカフェだから、まずはシェアハウスに住んで静岡のいろいろな人とつながり意見を聞けたらなと思いまして。

――そうなんですね。シェアハウスだといろいろな情報が入ってきやすそうですね。住んでみて間もないかと思いますが、静岡にはどんな印象をお持ちですか?

下田の温泉にはたまに来ていたけど、まさか静岡に住むことになるなんて。住んでみたら、おいしいものも海も温泉も何でもそろっていて、とても好きになりましたね。東京は3倍速で、ときどき行くとエキサイティングでワクワクするけど、こっちにいると落ち着きます。あと静岡の人は穏やかで優しいなと感じます。

――ちなみに、中野目さんはカクニ茶藤の社員として転職されてカフェを運営されているされているのですか?

いえ、もう経営権をいただいて、オーナーという形です。皆さんに応援していただきながら。

――では本当に覚悟を決めてやられているという感じですね。

そうですね。毎日が充実していて、お客様に支えられているなと日々実感しています。へこみそうになっても、お客様が「静岡に来てくれてありがとう」「こんなカフェは今までなかったので本当にうれしい」と言ってくださって、私のやっていることは意味があるんだとすごく励みになります。

――素敵ですねー。今後の構想を聞かせてください。

まずはマクロビのランチを11月中に始めて、物販を今の倍くらいに増やし、静岡のお茶を広くアピールするために通販もやっていきたいと思っています。豆乳ラテのスティックも作ってみたいです。
大きな夢としては、もともと前のCHAYAにいた新人の頃から、体に優しいレストランを全国展開したいという思いがあり、CHAYAは卒業したけれど、ここでも夢が続いている感じです。私、中学ぐらいから健康オタクで、CHAYAに出会ったとき、こういうお店を広めていきたいと思ったんですよね。会社で社長と夢を語る機会にも「全国展開したい」と言い続けてきて、もう14年。だから、静岡で自分のお店を持つことができて幸せなんですよ。静岡の方は財布のひもが固いらしく、静岡でうまくいけば全国どこでも成功する、お店を6か月続けられたら認められた証拠と言われていて、もうすぐ6か月経ちます。これからも夢に向かって一歩ずつ進んでいきます。

急な展開でお店を運営することになった中野目さんですが、その決断の奥には意図せず昔の夢に通じていくものがあったのではないかと思います。まずは静岡の地で地固めをしつつ、全国展開されて日を楽しみにしていたいと思います。
(文=佐々木恵美、写真=窪田司)

【CHA10】
https://cha10.jp/
静岡県静岡市葵区鷹匠1-11-6
TEL:054-204-2210
営業時間:9時〜17時
定休日:火曜日

通過する町

伊豆下田は、古くからの港町。幕末、日本で最初に海外に向けて開かれた「開国の町」として知られています。海を介して多くの人が行き交い、さまざまな出会いとつながりを生んできた町は、現在も金目鯛や伊勢エビなどの名産品、美しい海岸や豊富に湧き出る温泉など、さまざまな観光資源が訪れる人々を惹きつけています。

そして、かつては多くの商店が軒を連ね、町の中心としてにぎわいを見せていた「旧町内」と呼ばれるエリア。ここには港町として栄えた時代の商家や蔵が数多く残っており、その建物を引き立てるのが、白と黒の壁土が碁盤の目のように交差する、美しい「なまこ壁」です。旧町内には、下田の風景を色濃く印象づける「なまこ壁」の美しい格子模様を残す蔵や商家が多く残っています。また近年建てられた金融機関の建物なども、この「なまこ壁」をモチーフとして採用しており、町全体をレトロでシックな雰囲気で包んでいます。

また、毎年8月に「下田八幡神社例大祭」が行われるのも旧町内です。江戸時代からの由緒あるお祭りで、一番の見ものは太鼓。別名「下田太鼓祭」とも言われるこの太鼓は、大坂夏の陣で勝利を飾った徳川勢が大坂城に入場する際の陣太鼓を模したものだといわれます。

そんな歴史と伝統のある旧町内ですが、現在では「人が通過する町」になりつつあります。それは、旧町内が交通の中心である伊豆急下田駅周辺と観光客が多く訪れる「ペリーロード」のちょうど中間にあたるため、せっかく市外から観光で訪れてくれた人たちが、旧町内の良さに触れることなく通り過ぎてしまう、というのが現状です。

そんな状況を打破しようとスタートしたのが、任意団体「ゆるいず」が中心となった「下田旧町内みんなのふるさと化プロジェクト」です。

『下田旧町内みんなのふるさと化プロジェクト』は、旧町内をひとつの家と見立てて、訪れた人たちが「ただいま!」と帰ってきたくなる、もう一つの居場所に思ってもらおうというのが狙い。そのひとつの成果として誕生したのが、『コミュニティスペース羽衣』です。

(さらに…)

静岡を代表する飲み物といえば“お茶”が真っ先に浮かびますが、実は今、クラフトビールが熱気を帯びています。県内には20か所を超えるブリュワリーがあり、「静岡クラフトビアマップ」を手に“ビアウォーク”を楽しむ人も。そんなクラフトビールブームに沸く静岡に、異色の経歴を持つビール醸造士(宮脇浩樹さん)がいると聞き、お話をうかがいました。

車掌からビール造りへ

――「ビール醸造士」。これはグッとくる、夢のある肩書きですね。宮脇さんはこのお仕事をはじめて長いんですか?

いえいえ、2019年に入ってからです。それまではJR東海で車掌として働いていました。

――車掌ですか? 意外な経歴ですね。

そうですね。こんな経歴の人は周りにはいないですね。高校を卒業してJRに入って6年目、そろそろ国家資格を取って運転士になるかどうかというタイミングだったんですが、僕はビールがとにかく好きで。あまりにも好きなので「ビール作ってみたいな…」とは思ってたんですが、思い切って「電車の運転士より、ビールの醸造士になろう!」って決心しちゃって(笑)。最初の動機はそんな感じでした。

――しかし、ずいぶん思い切った転身ですね。JR東海さんであれば今後も安定した生活が送れそうなイメージですが……。

それはそうですね。でも運転士の仕事って業務内容上、早朝や深夜勤務もあったり、自分には合わないかもと思ったんです。そこで自分が本当にやりたいことが何かってよく考えて行動したという感じです。

――それがビール造りだったということですね。静岡にはクラフトビールを作るブリュワリーがたくさんありますが、『AOI Brewing』さんはそのなかでも老舗ですね。

立ち上がったのが2014年、醸造を本格的にはじめて5年くらいですから、静岡では古いですがまだまだこれからのブリュワリーです。僕は、以前ここで醸造長をやっていた福山康大さんと、現醸造長の斯波克幸さんにビール造りを教わり、一緒に仕事をしたくて『AOI Brewing』に入社したんです。東京をはじめ、全国のブリュワリーを見て回ったんですが、やっぱりここがよかった。

――福山さんと斯波さん、それぞれどんな方でしょうか。

福山さんはまだお若いんですが、ひとりで醸造長を務めていた期間が長かったので、ビール造りについて自分で考えたり、勉強して積み重ねた経験があります。斯波さんは本当に研究熱心で、ビール愛にあふれています。常にいろんな配合や材料を試して挑戦していますね。心強い先輩です。2人のチームワークもすごくいいので、だからこそ「この2人と一緒に働きたい」と強く思いました。
実際に働きはじめても、すごくフレンドリーに接してくれて毎日職場に行くのが楽しいですね。

――実際のビール造りは、どんな工程で進むんでしょうか。

まず、モルト(麦芽)を砕いてお湯と混ぜ、でんぷんを糖化させたら固形分をろ過して、ビールの原料になる麦汁を作り煮沸してホップを入れます。ここでビールの苦みや香りの方向が変わります。次に麦汁を発酵タンクに移して酵母を入れます。ここまでが1日。その後発酵がはじまります。発酵し、製品になるまでは約1か月。

――ということは、「この夏はこのフレーバーのビールを限定で出そう」と決めるのは、それより前になるわけですね。

そうですね。仕込み直前の1週間、2週間前くらいまで、レシピを考えてどんなビールにしようか悩みます。

――もうレシピ作りまでやっているんですか!

先日、僕が初めて自分のレシピでビールを作ったんですよ。これ、本当は「朝霧JAM」で出す予定だったんですが……。

――そうか、2019年の「朝霧JAM」は台風接近の影響で中止でしたね……。では、せっかくのオリジナルビールはお蔵入りでしたか。

いえ、これが実は、いろんなお店からご注文をいただいたり、自社のビールスタンドなどでたくさん飲んでいただいて、だいたい2週間くらいで完売しました。

――そうでしたか!しかも完売とはすごいですね。

評判もすごく良くて。自分が考えたものが実際にビールという形の商品になって、それを飲んだ人が、直接感想をいってくれるのは、すごく不思議な、これまでにない体験でした。
(さらに…)

静岡県藤枝市のほぼ中央に位置し、おだやかな水面を四季折々の自然が囲む蓮華寺池公園。藤枝市民の憩いの場として、長く親しまれています。
なんでもここ最近、この蓮華寺池公園を舞台に、「藤枝おんぱく」をはじめとした地域の活性化を目指すさまざまな取り組みが行われているとか。その中心として活動する、一般社団法人SACLABO・NPO法人SACLABO理事を務める大場唯央さんにお話をうかがいました。取材現場に現れた大場さん、一見して「NPO法人の理事」というよりも、ある職業の方に見えるのですが……?

“違和感”というきっかけ

――大場さん、差し支えなければうかがいたいのですが、お坊さんでいらっしゃる……?

はい、大慶寺というお寺の副住職をしております。もともとお寺の三男坊でしたが、寺を継ぐ予定はなくて、高校や大学も普通の学校に行きました。大学進学では東京に引っ越しました。

――お寺を継ぐ方なら、それぞれの宗派の大学に行ってそこで勉強して、よそのお寺で修行して……というルートが多いですよね。

三男坊なので、のらりくらりと育ちまして(笑)。でも大学3年のときにこっちの道に進むことになって、通っていた大学とダブルスクールというかたちで仏教系の大学に入り、僧侶になりました。

――では、そのまま今のお寺でお坊さんとしての活動に移られたのですか。

いや、実際はそんなにスムーズではなくて……。最初藤枝に戻ってきたころは、いろいろと違和感を感じてたんですよ。例えば、東京の大学で同期だった人たちは毎日何億というお金を動かす仕事をしてますが、こっちの同級生は仕事は定時で上がって飲みに行くか車でどこか行くかという感じ。そのギャップに、何度も東京に戻りたいなって思っていました。

――でも、お寺ですから「転職して東京戻るわ」ってわけにもいかない。

そうですね。そこで、「住んでいるところを好きにならない限りは、ずっとこのままつらいだけだな」って気がついたんです。そこから、今やっているような地域にかかわる活動を始めました。これが2010年ごろで、20代後半のことでしたね。

――それが、今の一般社団法人・NPO法人SACLABOにつながってくるわけですね。

NPO法人として設立したのが2014年です。当初は事務所が藤枝の駅近くにあったんですが、蓮華寺池公園の魅力が生かし切れていない、蓮華寺池公園を中心にまちづくりをしたいと思い、そこで、蓮華寺池公園に移ることにしたんです。毎月の第3日曜日に「れんげじオーガニックマーケット」を開催していたというご縁もありますしね。

――でも、蓮華寺池公園って藤枝市の管理している公園ですよね。そこに事務所を構えるのはなかなか大変だと思うのですが……。

実は、事務所が入っている建物と隣の駐車場は、公園のなかですが私有地なんですよ。2階が『あずまそ』という日本料理屋さんで、1階が事務所。「オーガニックマーケット」もそこの駐車場でやらせていただいています。
ただ、僕たちの事務所ができるだけでは何も生みださない。そこで、コーヒーの移動販売をやっている僕の友だちに「車でやるよりちょっとだけ広くなるんだけど、やらない?」って声をかけて、コーヒーを淹れるお店にしてもらいました。

――では、SACLABOさんの活動としては、「オーガニックマーケット」と「藤枝おんぱく」ですね。「おんぱく」というと、各地の温泉街で「温泉博覧会」という意味合いでやっていますが、ここに温泉があるようには見えないのですが……。

藤枝おんぱくは、「温故知新博覧会」という位置づけでやっています。元々の意味は「故きを温ね新しきを知る」という意味ですが、『藤枝おんぱく』では「今あるものを新しい視点で」という意味で使っています。この地域で暮らす人たちが、「面白い」「素敵だ」と思ったことを、みんなでやってみようというものです。例えば今日は酒蔵で日本酒の奥深さを学ぶ定員6名のプログラム、明日は茶畑で定員5名のお茶摘みツアーなど、4月後半から6月上旬までの長い期間、いつもどこかでなにかのイベントが行われている。

――それは楽しいですね。期間中ずっとお祭りをやっている感じです。

普通のお祭りだとある一日だけ、特定の場所でということになりますけど、藤枝おんぱくは小さな体験イベントを複数、長期間にわたってやっていく。観光事業でもあるんですけど、それよりも地域の主役というか元気のある人を発掘して、お互いにつながっていくという認識のほうが強いですね。

(さらに…)

待ち合わせ場所に、ロードバイクにカラフルな装いでさっそうと現れた本田秋江さん。高校を卒業後、東京で学び働いて、30歳で地元に帰ってきました。学生時代からクリエイターとして仕事をしていた本田さんですが、帰郷後は紆余曲折を経て、今では幅広い仕事を手がけるようになりました。どんな苦労や思いがあったのか、率直に本音を話してくれました。

移住後も変わらなかった多忙な日々

――見た目もカラフルで名刺交換の際もその名刺が独特で印象的でした。(※実際に会われた際のお楽しみのために、名刺公開時のことは未記載とします)早速ですが、本田さんのこれまでのキャリアについてお聞かせください。

ありがとうございます。生まれも育ちも静岡県藤枝市で、高校は美術デザイン科を卒業し、東京の池袋にある創形美術学校に進学しました。実は美大を目指して浪人したこともあり、そのときからいろいろ面白い仕事をしていました。百貨店の紳士服売場で店長をしたり、絵画教室でアルバイトをしていたら、そこで知り合った学研教室の先生から夏期講習のチラシをマンガっぽく作ってほしいと頼まれ、それが学研本社の方の目に留まって全国版の広告を作ったり。予備校の先生の紹介で建設中だったテーマパークのペイントをしたり、渋谷で映画「スナッチ」のブラッド・ピットの壁画も学生でありながらも描いたりしていました。

――すでにしっかりとお仕事されていて充実した学生生活ですね。卒業後は就職をされたのですか?

はい、東京にあるテレビ局で、番組のCGやテロップを作る仕事をしていました。その後フリーランスになり、マンガや広告、Tシャツの絵柄のデザインなど、紙媒体に限らず幅広くイラストやデザインの仕事をしていました。

――静岡に戻られたのはいつ、どんなきっかけがあったのですか?

10年前、30歳で帰ってきました。両親に何かあるたびに、仕事を休んで東京から地元へ帰る回数が増え、親も自分も気を遣う。年老いていく親の姿を見て、残りの人生を少しでも長い時間一緒に寄り添い、生活したいと思いまして。漠然とずっと東京にはいないだろうと思っていましたし、すでにインターネットが普及していて、どこにいても仕事ができそうと感じたのも後押しになりました。

――では、Uターン移住で戻られた静岡でもフリーランスとして仕事を続けられたと?

いえ、それが実家は自営業なので、親元に帰るなら不安定な仕事ではなく会社員になってほしいと言われて…。仕方なく就活して、地元テレビ局のCMを制作する会社でディレクターになりました。
でも、早朝から深夜まで働いて、東京の会社員時代と変わらない生活。まわりは30歳すぎたら結婚して子どもがいて、当時私にはパートナーもいなくて、何をしに戻って来たんだろうという気持ちになっていましたね。

――そうですか、東京なら独身でバリバリ働く女性も多いでしょうけれど…

そうなんですよ。両親は心配していたけど、でも自分では紙と鉛筆があれば食べていけるかなと思っていました。今の旦那に出会ったのは、会社をやめて次のことを考えていたとき。20代は仕事づけで遊んだ記憶があまりなく、海外に行きたいと思い、3か月インドに留学しました。

――え、インドですか!

小学生の頃からヨガをしていて、知り合いから教えてと言われるので、インストラクターの資格を取ろうかなと思っていました。東京の友人と「いつかヨガをやりにインドに行こうよ」と話していたら、ちょうど友人も仕事をやめて次の仕事を探していて、「じゃあ、行こうよ!」と。インドに3か月留学して、インド政府公認のヨガのインストラクターの資格を取得しました。自分の人生なのに、よく分かんないですね(笑)。

フリーランスでやる決意

――思い立ったら行動されるタイプですね。

そうですね(笑)。インドから帰ってきて、現在旦那である彼と結婚をしまして、自分の仕事をしながら、もうちょっと稼ぎたいなと車のサプライヤーでアルバイトを始めたけど、またしても帰宅が遅くなる生活になっていました。そんなある日、家に帰ったら、旦那が家の電気を付けずにスマホのゲームをしているのを見て、夕飯も作ってあげられない時間に帰ってきて、でも帰って作るのも疲れるし、技術のいる会社で働くのはやはり厳しいなと気付いて、フリーランス1本に絞ってやっていくことにしました。

――フリーランス1本にして、定期収入がなくなるという不安もあったかと思いますが、行動に起こすまでに転機があったのでしょうか?

藤枝市が発行する「広報ふじえだ」に女性起業家育成セミナーのお知らせが載っていて、受講して起業のノウハウを一通り学び、私にもできそうかなと感じたんです。セミナーのファイナルにビジネスプランのコンペがあり、アートの力で商店街を活性化するプランを応募したら、ファイナリスト5名に選ばれ、ホテルでプレゼンして奨励賞をもらい、新聞などに取り上げられました。私のやりたいことをアピールできて、それが事業スタートのきっかけになりました。2年前に正式に開業届を出し、「クリエイティブスタジオ赤飯」と屋号をつけました。

――なぜ赤飯に?

実家の父は、今も現役で建築士兼大工。縁起を気にする家庭で、誕生日や祝い事では赤飯を炊いて食べる家庭で育ちました。自分の仕事は、商品開発やチラシなどクライアントさんの門出に力添えするという意味があると思い、この名前にしました。赤飯は印象が強いようで、よく理由を聞かれるので、コミュニケーションが始まるいいツールになっています。

――たしかにずっと赤飯は気になっていました。フリーランスとなり、今はどんなお仕事が多いですか?

紙媒体を中心にグラフィックデザインやマンガを制作したり、行政主催の女性起業家育成セミナーの講師をしたり、商品開発のアドバスをしたり、藤枝市が発行している冊子の編集長を務めたりしています。中小企業庁のミラサポという制度や静岡県産業振興財団にも専門家として登録していて、行政は国と県と市、企業、個人まで幅広いクライアントとお仕事させてもらっています。

――毎日どんな感じですか? お忙しそうな感じが…

めちゃくちゃ忙しいですね。同業者には「ヒマじゃない?」とか言われるけど、自分はデザインも営業も打ち合わせもやるし、それ以外に編集や講師をしたり、企業に出向いたり、どれも下準備が必要なのでひっちゃかめっちゃかですね(笑)。

全ては自分次第

――静岡に住んでいても、いろんな仕事があるのですね。

起業してからいろんな世界を知りました。仕事を取るためには、自分でどんどん動いて提案してやっていくしかない。棚からぼた餅は落ちてこないから。銀行や保証協会など金融系の方から事業主を紹介してもらうこともあります。お仕事をいただいたら、期待に応えたいと精いっぱいやっています。

――静岡に戻ってこられて感じる静岡の魅力ってどんなところだと思われますか?

東京から戻って感じたのは、静岡の人は本当にのんびりしている。歩くスピードや車の運転もだし、いい意味でガツガツしていない。東京なら仕事は食うか食われるかだけど、静岡ではマイペースで進められるのが自分にはありがたい。それに、空気や水がきれいで、旬の野菜や魚が食べられるのがいい。新鮮な野菜が安く手に入る産直店があるって、生活には重要なことだなと思います。

――反対にデメリットはありますか? 静岡で移住したい・働きたいと思う人に向けて、アドバイスをお願いします。

私にとっては生まれ育った地でも、10年ぶりに帰郷したての頃は、地元に全然馴染めませんでした。それでも地元をもっと知るために女性起業家仲間と一緒に「晴れたらポタリング」という市民団体を立ち上げました。これは共通の趣味であったポタリング(*自転車で散歩程度に軽くサイクリングすること)をするというものなのですが、ポタリングでまちを散策することでいろいろな発見や出会いもあり、そうやって自分の居場所を作っていくことができました。よそから移住してきてまだまちを知らない、馴染めていない人にとってもポタリングはおすすめですね。

静岡でも地域ごとに特色があり、いわゆる田舎の方では昔ながらの感じでよそ者を警戒したり、地元の祭りや行事に参加しなければならなかったりとか、新しい住宅地では全国からいろんな人が来ているなどと耳にします。一方で、子育てしている人やお年寄りには優しいまちになっていると思います。
働くことに関しては、自分が住んでいるのがたまたまここというだけで、自分さえ動けば、東京でも地方でも海外でもいろいろできるんだなと体感しています。やっぱり何でも自分次第。幸せを見つけるのも自分の心次第だと思いますよ。

クリエイティブなお仕事を数多くこなしていながらも、その根底にある軸には“自分に正直”に動いている本田さんの姿がありました。決して言い訳をしない素直な言葉には、これから地方でクリエイティブな仕事を考えている方にとって参考になるのではないでしょうか。
(文=佐々木恵美、写真=窪田司)

静岡県の東、伊豆半島のさらに東側。相模湾と伊豆諸島を望む東伊豆町・稲取は、漁業と温泉で栄えた町です。しかし少子高齢化の波には逆らえず、人口は自然減・社会減が常態化しています。
しかし、そんな稲取に新しい風を吹かせようとやってきた若者たちがいます。稲取地域の空き家の改修と活用を目指すNPO法人ローカルデザインネットワークの代表、荒武優希さんにお話を聞きました。

「ああ、ここから始まるんだな」

――稲取、本当に海が近くて素晴らしいところですね。どういう経緯でこの地に関わりを持つことになったんですか?

僕は、もともと横浜の出身です。大学では建築を勉強していて、大学院に進むときに、同級生から地方の空き家を改修する学生団体を立ち上げようという話が出て、そこにのっかる形でここ稲取にご縁ができました。2016年、院修了後の就職先に稲取がある東伊豆町の地域おこし協力隊を選び、活動テーマとして選んだのが「改修した空き物件の活用・運用」。同時に空き物件運用のため学生時代の仲間を中心にNPO法人を設立。協力隊として3年間活動した後そのままNPOに活動を引き継いで、今は地域や行政の皆様に助けていただきながら、ご飯を食べさせていただいています。

――それまでは、稲取や東伊豆町には何か関係があったんですか?

まったくありませんでした。学生時代は、空き家の改修をしようと長野県の信州新町(長野市)に通っていて、こんな山に囲まれた土地で暮らせたらいいなって漠然と思ってました。
でも、初めてこの町に来たときに、本能的に「あ、ここからなにかが始まるんだな」って思ったんです。ちょっと山を登ったところに、稲取を一望できる場所があって、そこから見た稲取の景色がすごくよくて。「この町と自分と、なにか起きそうだ!」というわくわくを感じたんですよね。

――一目ぼれというか、ビビッと来たわけですね。

はい。そこからスタートして、まずは「空き家の改修ができたらそれでいい」という考え方だったんですけど、それはあくまで目先に見えていることでしかなかったんですよね。実際は、もっと大事な根深いことがあって、それが「空き家」という形で出ていて、根深いことを解決する手段として空き家の改修があるんじゃないかって思い始めたんです。
というのも、学生団体「空き家改修プロジェクト」として手掛けていた初めての空き家の改修は、結局運営する人が見つからないまま、改修だけが完了しました。
2014年に改修したそちらの空き家は、5年経った今でも有効活用できていません。

――それは……ちょっと、悔いが残りますね。

その悔しい経験をバネに自分たちが関わったリノベーション物件を地域に貢献できる場所として責任を持っていきたい、という思いはずっとあります。2件目の物件は、消防団の器具置き場を改修して、『ダイロクキッチン』というシェアキッチンを立ち上げ、現在はNPO法人として運営を行っています。私達が卒業した後も「空き家改修プロジェクト」の後輩たちが3年間かけてフルリノベーションした『EAST DOCK』の運用も2019年5月よりスタートしました。

――本当に素晴らしいロケーションです。目の前には海と港、そして山の緑もきれいで。

この建物は、稲取と伊豆大島を結ぶジェット船の切符売り場です。今は1月から4月の伊豆大島椿祭りの期間だけしか運航していないので、残りの8ヶ月は空いている。そこで、東伊豆町から「次はここを改修してみては」とお話をいただきました。現在、コワーキング・レンタルスペースとしてご利用いただいています。ものづくりのイベントやワークショップ、商品開発のプロトタイプ制作、クラフトグッズづくりなどにも使っていただけます。

――地元との連携は重要なキーになると思いますが、どうでしょうか。

最初に改修した物件の「失敗」を反省材料に、目標としているのは「なるべく自治体の支援に頼らないプロジェクトにする」ということです。東伊豆町の空き家率は静岡県の平均よりも高いといわれていて、ここ稲取でも活用されていない家や建物はたくさんあります。

――空き物件をどう活用するかも問題ですね。シェアハウスや民泊などが考えられますが……。

稲取は昭和の初めに温泉が発見されて以来、温泉地・観光地として栄えてきた土地柄なので、古くからの旅館や民宿がたくさんあります。
民泊やシェアハウス、Airbnbに宿泊するお客さんと、温泉旅館に泊まるお客さんは客層として違うので、お客の取り合いというかたちにはなりません。素泊まりとか安い宿代でやってくるお客さんたちを呼び込んで、その人たちが稲取で飲食などの消費活動をしてもらい稲取の魅力を広げてくれる。そんな循環を作って、地域全体が利益を得るかたちにしていきたいですね。

地方には「デカいスキマ」しかない!

――地域の側にもメリットがある方向にもっていきたいですね。

そうですね。僕は今後どこかで自分の持っているスキルを使ってなにかをしたい欲求を持った個人が訪れる町になってほしいと考えています。ふらっと一人で稲取に来て、地元の人たちとなんとなくつながって、稲取の魅力を感じて「この町で何かしたい」「もう一回訪れたい」と思ってもらえるように地域で起こっていることを伝えていきたい。
そしてゆくゆくは、移住とまではいかなくても、この町のプレイヤーの一員になってほしい。『EAST DOCK』でイベントやワークショップを開いたり、地域で新しい仕事を作るような、稲取にかかわりたい人を増やしていきたいと思います。
僕たちのNPOも、メンバーの半数以上は都会に住んでいます。そこで作った人脈で稲取に企業の研修を誘致したり、いろんな取り組みをしています。受け皿のかたちもたくさんあった方がいいですね。

――ちなみに、個人で来る人というのはどういうキャラクターを想定しているんですか?

フリーランスのクリエイターや、「これから実績を作りたい!」という人ですね。よく「スキマ産業」っていいますけど、稲取やこの周辺には「デカ過ぎるスキマ」しかないですから!(笑)。

――デカ過ぎるスキマ! これはパワーワードですね。私の場合はライターなので、「毎日記事を書いてアップすれば、3ヶ月間衣食住は保証します!」っていわれたらあっという間に稲取の関係人口に立候補しそうです。

地域の弱みとして情報発信が挙げられることが多くあるので、それはアリかもしれませんね。「観光」「温泉」「海」と、キーワード・ロケーションは揃っていますから、やりたいことがある人なら、どんな人でも入り込む余地はあります。『EAST DOCK』はそういう人たちのためにある場所だといってもいいかもしれません。

――需要もありそうなので、ライターなら「ライターン」というキャッチフレーズで募集すれば集まりそうです。カメラマンでもなんでもいけますね……。

大都市だと、「◯◯になりたい」って人はたくさんいるじゃないですか。つまりすでに埋まっている席を争って、大勢でひしめき合っている。でも地方では必要とされているし、席も空いているのに、なかなかそこに気がついていないんですよね。

――“必要とされている”というのも重要ですね。今後、荒武さんが目指していきたいことはなんでしょうか?

ひとつの地域にずっと住んでいると、その地域の良さにどうしても気づかなくなってしまう。新しく来た人に稲取を案内すると、どこを見ても「すごい!」と感動してくれます。僕も最初はそうでしたけど、その感覚は鈍っていく。
地域ごとの魅力を掘り起こして、守っていきたいものを可視化していかないと、本当に失われてしまうんじゃないか。だから、「それ大事ですよ~」ってアピールする人や場所、媒体をつくる、そんなことに取り組んでいきたいですね。

きっかけは些細なことでも、具体的な施策まで落とし込むのはなかなかできないことだと思います。「失敗」を経験して、そこで諦めるのではなくこの地域の未来を考えた本気の取り組みは今後地方にとって希望の光になるかもしれません。

伊豆下田の白浜海岸。駿河湾と相模湾に囲まれ、太平洋に面して「美しい海」には事欠かない伊豆でも、国道に面して砂浜が広がる白浜が随一という声も上がる、全国でも広く知られたビーチです。古くから景勝地として知られ、訪れる海水浴客、観光客も多い白浜には、ホテル、旅館、コテージ、貸別荘、民宿など大小さまざまな形態の宿泊施設が軒を連ねます。

そのなかでもひと際目を引く、黒を基調にしたシックな佇まいの民宿『勝五郎』。デザイン重視の新築物件かと思いきや、実はリノベーションというから驚きです。
手掛けたのは、一部上場企業で空間デザイナーとして腕を振るっていた経歴を持つ土屋尊司さん。お祖父さんが開業し、一度は廃業していた『勝五郎』を引き継ぐ形で、2018年6月に再オープンしました。
Uターン移住&転職、というチャレンジですが、土屋さんはこれまでのキャリアを生かして、二足、三足、いやそれ以上のわらじをはくユニークなワークスタイルで白浜での生活を楽しんでいます。

デザイナーから民宿経営へ

――もともと下田にお住まいだったんですね。

そうですね、高校まで下田に住んでいました。大学と大学院は三重、就職後は大阪で働き、転勤して福岡、それからまた大阪に戻り、そのあと下田に移住してきました。
学生時代や就職後はあまり下田にも帰ってこなくなり、『勝五郎』も祖母の高齢化を理由に廃業になりました。たまに帰省した時などに「だんだんここも、民宿から普通の家になっていくのかなあ」と思っていました。

▲『勝五郎』から眺める下田(白浜)の景色

――前職の「空間デザイナー」とは、どういうお仕事だったんでしょうか。

デパートやビル、空港など、商業施設の内装設計や展示会のイベントブースの設計ですね。クライアントの思いを形にするため、イメージ画を描いたり、CADを使って図面をつくったり。忙しいけれど、充実した仕事でした。

――大きなお仕事ですね。そこから実家の民宿の後を継ぐというのは、かなり大きな方向転換だったのでは?

確かにそうですが、全く違う業種なのである意味割り切って戻ってくることができたのは良かったと思います。サラリーマンとしての仕事も楽しんでいましたが、それだけに心機一転というかたちで民宿に取り組むことができました。でも、民宿を継ぎたいという話をしたときに、実は父には反対されたんですよ。

▲リノベーション前の『勝五郎』

――どうして反対されたのでしょうか?

この地域は、夏がシーズンの観光地なので民宿としての売上は夏に集中します。年間を通じてみると、これほど売上に凸凹があるのは安定した仕事とは言いづらいですしね。そこで、移住前に「これまでのキャリアを生かした仕事を副業としてやる」という話をして、父にも納得してもらい民宿を継ぐことができました。

――メインの民宿業に加え、移住後にこれまでの仕事を副業としてはじめることになったんですね。これまでというと、設計のお仕事でしょうか?

そうですね。以前勤めていた会社から、外注デザイナーとしての仕事をいただいています。昔の後輩とかから気軽に頼んでもらっています。こっちに住みながら東京や大阪などの仕事をしていますのでリモートワークですね。
そしてもうひとつはじめたことがあって、それが「イラスト」の仕事です。もともとは手帳の片隅に落書きみたいに描いてたんですが、妻から「それ、売れるんじゃない?」って言われまして、試しに『下田時計台フロント』さんで開催されていた「手作り市」というイベントに出店してみたんです。そこではポストカードを販売したのですが、このイラストを見た『下田時計台フロント』さんから「うちのも描いてくれないですか?」とお話いただいて、それがはじめてイラストの仕事になりました。

▲「手作り市」出店の様子

そこからイラストをSNSにもアップしていると『NanZ VILLAGE』にあるかき氷屋の『下田南豆製氷所』さんからもかき氷のイラストもご依頼いただくようになり、徐々に他からも依頼が入るようになりイラストが本格的に仕事になっていきました。

――すごい!ご縁でつながっていく感じが地方ならではですね。では現在は民宿と設計、そしてイラストと“複”業のスタイルですね。

ありがたいです。実はもうひとつありまして、これもたまたまの出会いからだったんですが、最近は看板なども作っています。DIY的なことが少しできたということもあり、デザインから実際の制作までやりました。依頼者には「DIY的なクオリティで大丈夫ですか?」と聞くほどだったんですが、実際納品してみると非常に満足していただけたのでよかったです。

▲手がけられた看板

「余裕と余白」のバランス

――そこまで多種のお仕事があるとメインの民宿が忙しい時期とはバッティングしていない感じでしょうか?

そうですね、これまではちょうどかぶる仕事がなくて。なので、お断りせずに済んでいます。夏場は民宿が繁忙期のため、こちらからは営業をかけないようにしています。いざとなったら徹夜でなんとかしようかなと……(笑)。

――お仕事いただくのはうれしいですけど、そこのバランスは難しいですよね。

そうですね。これは前職の仕事で学んだんですが、「余裕と余白」ということが大切だなと感じています。前職で自分がキャパオーバーになっていた時に、上司の働き方を見て驚いたんです。上司の余裕のある状況判断と適切な指示で、仕事がスムーズに進んだことがあって、その当時は何でうまく仕事が進んだのかわからずの状態でしたが、その後自分に余裕をもたないと、いい仕事はできないとわかったんです。そして、余裕を持つには余白があることが必要。空いている時間に、できることをさばいていく。例えば今週もイラストの仕事を3件一気にもらって詰まっちゃったんですが、今なら「あ、これならスキマの時間に進めていけば終わるな」という余裕が持てます。自分のキャパを知ったうえで、いろんなことをやった方がいいと学びました。

▲『勝五郎』での交流の様子

――働き方のスタイルが見えてきた感じですね。下田での今後の目標はどんなものがあるでしょうか?

地域貢献につながることをしていきたいですね。僕自身この地域で育ったので、地域の人たちにも恩返しをしていきたい。白浜や下田に限定せず、伊豆全体でできることをみつけていきたいと思います。最近は地元で下田の旧町内にあるシェアスペース兼ゲストハウス『羽衣』のコンセプトスケッチとリノベーションアドバイザーというかたちで関わりました。地元に入り込むことでありがたいことにいろいろなご縁をいただきます。そこでも自身の現状を顧みて自分のペースで最大限のことを取り組んでいきたいです。

異業種への転身にはいろいろなハードルがあるかと思います。土屋さんの場合も例外ではなかったと思いますが、前職の経験やこれからの暮らしを考えた末に現在のかたちがあるのだと思いました。複業でパワーが分散するのではなく、メインである民宿『勝五郎』も片手間になるのではなく、それぞれ関わっている事からのインプットもあいまって、ますます進化していく場になっていくと思います。土屋さんが手がける数々のものにこれから注目していきたいです。
(文=深水央)

【温泉民宿 勝五郎】
http://katsugoro.com
〒415-0012
静岡県下田市白浜2189-1
TEL:0558-22-1937
MAIL:info@katsugoro.com

日経新聞に取り上げられるなど、神奈川県のスタートアップ界隈では広く知られている村田茂雄さん。東京に本社を置く企業の横浜オフィスに勤務し、ベンチャー企業の支援に奔走されています。そんな村田さんが住んでいるのは静岡市。静岡に移住し、天職といえる現在の仕事にたどり着くまでには、さわやかな笑顔の奥に秘めた強い意志と情熱がありました。

誰かのためになることを全力で

――村田さんは静岡から関東に通勤されていると伺いました。ご出身が静岡ですか?

いえ、私は神奈川生まれで、長野の信州大学を卒業して4年半は銀行で働いていました。その後、母が静岡で一人暮らしをしていたため静岡に引っ越して、静岡の金融機関に転職。そして5年前に現職で採用となり、今は静岡から横浜のオフィスに通っています。

――地元の金融機関からわざわざ通うことになる大手監査法人に転職されたのは、なぜでしょう?

「誰かのためになりたい」という想いがあり、銀行ならそれが実現できると考えて就職しました。しかし仕事にやりがいはあったのですが、金融機関での業務に限界を感じてしまったんです。
今はそうではないですが、当時の金融機関の融資というのは、過去の実績を何よりも重視します。社長が「これをやりたい」と言っても、現在から過去にさかのぼって不安要素があれば融資はできない。過去で判断すると、将来の可能性を見いだせても支援ができないことにジレンマを感じていました。その手堅さが金融機関を支えていますので悪いことではないのですが。
ただ、私はもっと会社の将来を応援していきたい、いいビジョンを描いていたら全力でサポートしたいと思ったんです。コンサルタントという職業ならそんな仕事ができると分かり、ご縁があって現職に転職することを決めました。

――さわやかな表情とは裏腹に熱い想いですね。お仕事の内容はどういったものなのでしょうか?

ざっくり言うと、神奈川県でチャレンジする経営者を応援するのが私のミッションです。今は特にベンチャーを中心にしています。ベンチャーというのは、今まで世の中になかった商品やサービスなどを生み出す会社こと。皆さん、前例も答えもないビジネスに、知恵を絞って挑んでいます。そこが本当にすごいと思っていて、私は彼らが成長できるようにあらゆる支援をしています。

――ベンチャーの支援は、知識や経験、人脈などあらゆる力を必要とされそうですね。村田さんはどんなことを大切にされていますか?

「答えは社長の中にしかない」と思っています。社長がどうしたいのかをしっかり把握して、現状とのギャップからロジカルに今のベストを探り、行動して、また考えて行動して、というサイクル、いわゆるPDCAを回しながら、社長と一緒に知恵を絞っています。何よりも社長の思いやビジョンが大切だと考えています。

――これまで何人くらいの方を支援されてきたのでしょうか?

金融機関のときから数えて15年で1,000人以上の経営者と接してきました。

――1,000人ですか、すごいですね。

経営者と言っても一人ひとり状況や想いが違って、同じ仕事はありません。ただ、15年の経験の中で、皆さんに共通してお役に立てそうな考え方などが分かってきました。それをもっと広くお伝えして、ひとりでも多くの人を応援したいと思い、つい先日、著書「起業アイデア3.0」(秀和システム)を出版したところです。
「起業のためには行動が大事」とよく言われますが、行動できない人はその人自身の問題よりも、そもそも自分のアイデアに問題があることが多いと思っています。チャレンジすることを躊躇されている方が、この本を読んで、ヒントを得て、一歩踏み出してもらえればと願っています。

――本という形なら、どこにいても多くの人に読んでもらえますね。

そうなんです。起業したいと思ったとき、住む場所や働く場所などによって、どうしても情報格差が生じますし、その情報格差によって事業の成長も変わってきます。起業を志す人は地方でもどこにでもいて、地域間で人の能力の質に差はないのに情報格差によって不利になるのはもったいない。そこをできる限り解消したいと思って本を書きました。

境目のないスタイル

――コンサルタントという仕事のやりがいはどんなところでしょう?

ありきたりですが、やはりお客さんに喜んでもらえるとうれしいです。「村田さんのおかげで」と言ってもらえると、やっていて良かったなと改めて思います。また、ベンチャー支援について言えば、将来の世の中を変える可能性のある、でも現段階ではあまり日の目をみていない商品やサービスに価値を見出して支援していく、将来の可能性を信じてサポートすることにやりがいを感じます。

――静岡に住み、関東に通勤されることのメリットはありますか?

静岡から毎日、横浜や東京に行って仕事をすることは、私が望んでいる地域の情報格差をなくしていくことに繋がると思っていまして、その役割を意識して通勤しています。もちろん、出生地である神奈川県に思い入れもあります。
横浜や東京に通うのであれば静岡市はちょうど良いです。通勤はドアtoドアで1時間半くらい。同僚は毎日満員電車で同じ時間をかけて出勤していますが、私は静岡から新幹線ですので混まずに座れますし、車内で仕事をしたり本を読んだりして、移動時間も有効に活用しています。今の仕事が充実していて、仕事とプライベートの境目があまりなく、充実した生活を送っています。
私自身は、どこに住んでもいいと思っていまして、静岡市が生活拠点であることに満足しています。きっかけは、たまたま母が静岡にいて、妻の実家も静岡だから、ここにいますが、近所にすごく好きなラーメン屋やカレー屋があって、妻と頻繁に通っています。ここに住む理由はそれだけでも充分。自分なりの満足ポイントがあればいいと思うんです。人柄で言うと静岡の人はおっとりしているのも私には合っていていいですね。

――最後に、これからの目標を教えてください。

起業家界隈をもっともっと盛り上げて、チャレンジしやすい世の中にしたいと思っています。そのためには、行政の枠組みを越えて、例えば県や市が連携していくことも大切ですし、社会が寛容であってほしい。以前の日本は、一度失敗したら立ち直りにくい社会でしたが、最近はそうじゃなくなっていると感じます。一度就職した会社に定年までいるというモデルが崩れてきている中で、転職が前向きに捉えられて、失敗してもそれが評価される雰囲気も出ていました。
また、クラウドファンディングや無料や定額で使えるクラウドサービスも増えてきており、チャレンジしやすい環境が徐々にできてきていると思います。その環境をもっと作っていきたいです。
私はこの地に根付いて、これからも誰かのチャレンジを精一杯応援していくつもりです。

「たまたま静岡だった」という村田さんですが、静岡だからこその時間の使い方や考え方で、仕事の質は下げないまま、充実したワークライフバランスの様子を垣間見ることができました。
(文=佐々木恵美、写真=窪田司)