【移住者インタビュー】移住して馴染めなかった地元。好転は自分への落とし込み。

待ち合わせ場所に、ロードバイクにカラフルな装いでさっそうと現れた本田秋江さん。高校を卒業後、東京で学び働いて、30歳で地元に帰ってきました。学生時代からクリエイターとして仕事をしていた本田さんですが、帰郷後は紆余曲折を経て、今では幅広い仕事を手がけるようになりました。どんな苦労や思いがあったのか、率直に本音を話してくれました。

移住後も変わらなかった多忙な日々

――見た目もカラフルで名刺交換の際もその名刺が独特で印象的でした。(※実際に会われた際のお楽しみのために、名刺公開時のことは未記載とします)早速ですが、本田さんのこれまでのキャリアについてお聞かせください。

ありがとうございます。生まれも育ちも静岡県藤枝市で、高校は美術デザイン科を卒業し、東京の池袋にある創形美術学校に進学しました。実は美大を目指して浪人したこともあり、そのときからいろいろ面白い仕事をしていました。百貨店の紳士服売場で店長をしたり、絵画教室でアルバイトをしていたら、そこで知り合った学研教室の先生から夏期講習のチラシをマンガっぽく作ってほしいと頼まれ、それが学研本社の方の目に留まって全国版の広告を作ったり。予備校の先生の紹介で建設中だったテーマパークのペイントをしたり、渋谷で映画「スナッチ」のブラッド・ピットの壁画も学生でありながらも描いたりしていました。

――すでにしっかりとお仕事されていて充実した学生生活ですね。卒業後は就職をされたのですか?

はい、東京にあるテレビ局で、番組のCGやテロップを作る仕事をしていました。その後フリーランスになり、マンガや広告、Tシャツの絵柄のデザインなど、紙媒体に限らず幅広くイラストやデザインの仕事をしていました。

――静岡に戻られたのはいつ、どんなきっかけがあったのですか?

10年前、30歳で帰ってきました。両親に何かあるたびに、仕事を休んで東京から地元へ帰る回数が増え、親も自分も気を遣う。年老いていく親の姿を見て、残りの人生を少しでも長い時間一緒に寄り添い、生活したいと思いまして。漠然とずっと東京にはいないだろうと思っていましたし、すでにインターネットが普及していて、どこにいても仕事ができそうと感じたのも後押しになりました。

――では、Uターン移住で戻られた静岡でもフリーランスとして仕事を続けられたと?

いえ、それが実家は自営業なので、親元に帰るなら不安定な仕事ではなく会社員になってほしいと言われて…。仕方なく就活して、地元テレビ局のCMを制作する会社でディレクターになりました。
でも、早朝から深夜まで働いて、東京の会社員時代と変わらない生活。まわりは30歳すぎたら結婚して子どもがいて、当時私にはパートナーもいなくて、何をしに戻って来たんだろうという気持ちになっていましたね。

――そうですか、東京なら独身でバリバリ働く女性も多いでしょうけれど…

そうなんですよ。両親は心配していたけど、でも自分では紙と鉛筆があれば食べていけるかなと思っていました。今の旦那に出会ったのは、会社をやめて次のことを考えていたとき。20代は仕事づけで遊んだ記憶があまりなく、海外に行きたいと思い、3か月インドに留学しました。

――え、インドですか!

小学生の頃からヨガをしていて、知り合いから教えてと言われるので、インストラクターの資格を取ろうかなと思っていました。東京の友人と「いつかヨガをやりにインドに行こうよ」と話していたら、ちょうど友人も仕事をやめて次の仕事を探していて、「じゃあ、行こうよ!」と。インドに3か月留学して、インド政府公認のヨガのインストラクターの資格を取得しました。自分の人生なのに、よく分かんないですね(笑)。

フリーランスでやる決意

――思い立ったら行動されるタイプですね。

そうですね(笑)。インドから帰ってきて、現在旦那である彼と結婚をしまして、自分の仕事をしながら、もうちょっと稼ぎたいなと車のサプライヤーでアルバイトを始めたけど、またしても帰宅が遅くなる生活になっていました。そんなある日、家に帰ったら、旦那が家の電気を付けずにスマホのゲームをしているのを見て、夕飯も作ってあげられない時間に帰ってきて、でも帰って作るのも疲れるし、技術のいる会社で働くのはやはり厳しいなと気付いて、フリーランス1本に絞ってやっていくことにしました。

――フリーランス1本にして、定期収入がなくなるという不安もあったかと思いますが、行動に起こすまでに転機があったのでしょうか?

藤枝市が発行する「広報ふじえだ」に女性起業家育成セミナーのお知らせが載っていて、受講して起業のノウハウを一通り学び、私にもできそうかなと感じたんです。セミナーのファイナルにビジネスプランのコンペがあり、アートの力で商店街を活性化するプランを応募したら、ファイナリスト5名に選ばれ、ホテルでプレゼンして奨励賞をもらい、新聞などに取り上げられました。私のやりたいことをアピールできて、それが事業スタートのきっかけになりました。2年前に正式に開業届を出し、「クリエイティブスタジオ赤飯」と屋号をつけました。

――なぜ赤飯に?

実家の父は、今も現役で建築士兼大工。縁起を気にする家庭で、誕生日や祝い事では赤飯を炊いて食べる家庭で育ちました。自分の仕事は、商品開発やチラシなどクライアントさんの門出に力添えするという意味があると思い、この名前にしました。赤飯は印象が強いようで、よく理由を聞かれるので、コミュニケーションが始まるいいツールになっています。

――たしかにずっと赤飯は気になっていました。フリーランスとなり、今はどんなお仕事が多いですか?

紙媒体を中心にグラフィックデザインやマンガを制作したり、行政主催の女性起業家育成セミナーの講師をしたり、商品開発のアドバスをしたり、藤枝市が発行している冊子の編集長を務めたりしています。中小企業庁のミラサポという制度や静岡県産業振興財団にも専門家として登録していて、行政は国と県と市、企業、個人まで幅広いクライアントとお仕事させてもらっています。

――毎日どんな感じですか? お忙しそうな感じが…

めちゃくちゃ忙しいですね。同業者には「ヒマじゃない?」とか言われるけど、自分はデザインも営業も打ち合わせもやるし、それ以外に編集や講師をしたり、企業に出向いたり、どれも下準備が必要なのでひっちゃかめっちゃかですね(笑)。

全ては自分次第

――静岡に住んでいても、いろんな仕事があるのですね。

起業してからいろんな世界を知りました。仕事を取るためには、自分でどんどん動いて提案してやっていくしかない。棚からぼた餅は落ちてこないから。銀行や保証協会など金融系の方から事業主を紹介してもらうこともあります。お仕事をいただいたら、期待に応えたいと精いっぱいやっています。

――静岡に戻ってこられて感じる静岡の魅力ってどんなところだと思われますか?

東京から戻って感じたのは、静岡の人は本当にのんびりしている。歩くスピードや車の運転もだし、いい意味でガツガツしていない。東京なら仕事は食うか食われるかだけど、静岡ではマイペースで進められるのが自分にはありがたい。それに、空気や水がきれいで、旬の野菜や魚が食べられるのがいい。新鮮な野菜が安く手に入る産直店があるって、生活には重要なことだなと思います。

――反対にデメリットはありますか? 静岡で移住したい・働きたいと思う人に向けて、アドバイスをお願いします。

私にとっては生まれ育った地でも、10年ぶりに帰郷したての頃は、地元に全然馴染めませんでした。それでも地元をもっと知るために女性起業家仲間と一緒に「晴れたらポタリング」という市民団体を立ち上げました。これは共通の趣味であったポタリング(*自転車で散歩程度に軽くサイクリングすること)をするというものなのですが、ポタリングでまちを散策することでいろいろな発見や出会いもあり、そうやって自分の居場所を作っていくことができました。よそから移住してきてまだまちを知らない、馴染めていない人にとってもポタリングはおすすめですね。

静岡でも地域ごとに特色があり、いわゆる田舎の方では昔ながらの感じでよそ者を警戒したり、地元の祭りや行事に参加しなければならなかったりとか、新しい住宅地では全国からいろんな人が来ているなどと耳にします。一方で、子育てしている人やお年寄りには優しいまちになっていると思います。
働くことに関しては、自分が住んでいるのがたまたまここというだけで、自分さえ動けば、東京でも地方でも海外でもいろいろできるんだなと体感しています。やっぱり何でも自分次第。幸せを見つけるのも自分の心次第だと思いますよ。

クリエイティブなお仕事を数多くこなしていながらも、その根底にある軸には“自分に正直”に動いている本田さんの姿がありました。決して言い訳をしない素直な言葉には、これから地方でクリエイティブな仕事を考えている方にとって参考になるのではないでしょうか。
(文=佐々木恵美、写真=窪田司)