静岡を代表する飲み物といえば“お茶”が真っ先に浮かびますが、実は今、クラフトビールが熱気を帯びています。県内には20か所を超えるブリュワリーがあり、「静岡クラフトビアマップ」を手に“ビアウォーク”を楽しむ人も。そんなクラフトビールブームに沸く静岡に、異色の経歴を持つビール醸造士(宮脇浩樹さん)がいると聞き、お話をうかがいました。
車掌からビール造りへ
――「ビール醸造士」。これはグッとくる、夢のある肩書きですね。宮脇さんはこのお仕事をはじめて長いんですか?
いえいえ、2019年に入ってからです。それまではJR東海で車掌として働いていました。
――車掌ですか? 意外な経歴ですね。
そうですね。こんな経歴の人は周りにはいないですね。高校を卒業してJRに入って6年目、そろそろ国家資格を取って運転士になるかどうかというタイミングだったんですが、僕はビールがとにかく好きで。あまりにも好きなので「ビール作ってみたいな…」とは思ってたんですが、思い切って「電車の運転士より、ビールの醸造士になろう!」って決心しちゃって(笑)。最初の動機はそんな感じでした。
――しかし、ずいぶん思い切った転身ですね。JR東海さんであれば今後も安定した生活が送れそうなイメージですが……。
それはそうですね。でも運転士の仕事って業務内容上、早朝や深夜勤務もあったり、自分には合わないかもと思ったんです。そこで自分が本当にやりたいことが何かってよく考えて行動したという感じです。
――それがビール造りだったということですね。静岡にはクラフトビールを作るブリュワリーがたくさんありますが、『AOI Brewing』さんはそのなかでも老舗ですね。
立ち上がったのが2014年、醸造を本格的にはじめて5年くらいですから、静岡では古いですがまだまだこれからのブリュワリーです。僕は、以前ここで醸造長をやっていた福山康大さんと、現醸造長の斯波克幸さんにビール造りを教わり、一緒に仕事をしたくて『AOI Brewing』に入社したんです。東京をはじめ、全国のブリュワリーを見て回ったんですが、やっぱりここがよかった。
――福山さんと斯波さん、それぞれどんな方でしょうか。
福山さんはまだお若いんですが、ひとりで醸造長を務めていた期間が長かったので、ビール造りについて自分で考えたり、勉強して積み重ねた経験があります。斯波さんは本当に研究熱心で、ビール愛にあふれています。常にいろんな配合や材料を試して挑戦していますね。心強い先輩です。2人のチームワークもすごくいいので、だからこそ「この2人と一緒に働きたい」と強く思いました。
実際に働きはじめても、すごくフレンドリーに接してくれて毎日職場に行くのが楽しいですね。
――実際のビール造りは、どんな工程で進むんでしょうか。
まず、モルト(麦芽)を砕いてお湯と混ぜ、でんぷんを糖化させたら固形分をろ過して、ビールの原料になる麦汁を作り煮沸してホップを入れます。ここでビールの苦みや香りの方向が変わります。次に麦汁を発酵タンクに移して酵母を入れます。ここまでが1日。その後発酵がはじまります。発酵し、製品になるまでは約1か月。
――ということは、「この夏はこのフレーバーのビールを限定で出そう」と決めるのは、それより前になるわけですね。
そうですね。仕込み直前の1週間、2週間前くらいまで、レシピを考えてどんなビールにしようか悩みます。
――もうレシピ作りまでやっているんですか!
先日、僕が初めて自分のレシピでビールを作ったんですよ。これ、本当は「朝霧JAM」で出す予定だったんですが……。
――そうか、2019年の「朝霧JAM」は台風接近の影響で中止でしたね……。では、せっかくのオリジナルビールはお蔵入りでしたか。
いえ、これが実は、いろんなお店からご注文をいただいたり、自社のビールスタンドなどでたくさん飲んでいただいて、だいたい2週間くらいで完売しました。
――そうでしたか!しかも完売とはすごいですね。
評判もすごく良くて。自分が考えたものが実際にビールという形の商品になって、それを飲んだ人が、直接感想をいってくれるのは、すごく不思議な、これまでにない体験でした。
楽しくやりがいのある仕事
――そうですよね。電車の車掌さんだと、お客さんから降りるときに「ありがとうございました」って言われることもあると思います。でもそれは、自分がやったことというより、「電車に乗ったこと」に対してのお礼でしょうし。
はい。「すごくよかったよ」って言ってもらうことはなくて。本当に、今までにないうれしさを感じました。
――ちなみに、ビールの出来栄えはご自分で思った通りでしたか?
実は、ちょっと違ったんですよね(苦笑)。ちょっと濁った仕上がりにしようと思っていたんですけど、実際に『AOI BEER CAFE』で仕事終わりに注文してみたら、すごくキラキラなビールが出てきて。
――あれ?(笑)
違うビールが出てきたのかと思いました。いつも使っている酵母は別の酵母を使ったんですけど、その酵母が活動しすぎたのかも。酵母によって元気の良さや活発になる温度も違います。発酵を始めるときの温度が高すぎると、酵母が最初に活動しすぎて後でヘタっちゃうんですよね。「オフフレーバー」っていわれる良くない臭いが出ることもあります。発酵タンクは開けてみるわけにはいかないので、バルブから少しずつ取ってみることしかできない。酵母は生物ですから、本当に繊細ですね。
――ビール醸造士として働いて半年ですが、どうですか。イメージと違うところはありますか。
忙しさについては自分のなかで心構えがあったので、それは大丈夫です。前職とのギャップを感じるのは、ひとりでやる仕事の量が多いことですね。でも楽しいことをやってますから、全然苦にならないです。休みもちゃんと取りますし。
――でも、自分が仕込んだビールが発酵している間って、気になって休みの日も毎日見に来たりはしないんですか?
毎日は来ないですが、やはり気になりますね。発酵タンクに入れた次の日は、「ちゃんと発酵してるかな」って朝出社するまですごく心配になります。発酵タンクの横にちいさなバケツがついていて、そこにボコボコ泡が出るようになっているんですよ。バケツが静かになってると心配になりますね。でもとてもやりがいを感じています。
――そこまで愛着を持って取り組む仕事はまさに天職ですね。
そうですね。静岡は今クラフトビールが本当に盛り上がっています。ブリュワリーもどんどんできているし、ビール好きなお客さんも大勢います。イベントもたくさんあるので、全国からお客さんもきてますし、ビール造りに関わりたい人は静岡はうってつけの場所なんじゃないでしょうか。
前職のときよりも忙しそうに働く宮脇さん。ですがその眼差しは、自分らしく働くことへの自信と未来への展望で輝いてみえました。今後の人生設計を考える上で“本当にやりたいこと”は何なのか、一度立ち止まり宮脇さんのように考えてみるのもよいかもしれません。
(文=深水央、写真=窪田司)